脊髄性進行性筋萎縮症と闘い、介護事業所を設立 2016年3月29日
絶望の淵から開いた“道”
【京都府亀岡市】市内にある、在宅・訪問介護の事業所「ホームヘルプセンターぴかピカ」を訪ねると、二階堂道廣さん(60)=曽我部創光支部、副常勝長(副ブロック長)=が笑顔で迎えてくれた。この介護事業所を設立して8年半。現在、理事長として、約30人の利用者へサービスを提供する二つの事業所を運営している。“どうすれば、介護が必要な人に、本当の手助けができるか”――追い求めてきた答えは、自身の宿命との格闘の中で見つかった。
奪われた自由
「進行性」という言葉が頭から離れることはなかった。
1985年(昭和60年)12月、「脊髄性進行性筋萎縮症」と診断された。脊髄の運動神経細胞の病変により、体幹や四肢に筋力低下などが表れる疾患。
大学を卒業し、化学メーカーの研究開発部で仕事に没頭していた。結婚し、家族を養って……。そんな“人並みの幸せ”を描いていた。
宣告を境に、病魔は徐々に二階堂さんの体をむしばんでいく。年を追うごとに、体の自由が奪われた。
背筋の力が落ち、走ることができなくなった。降りしきる雨の日。しゃがみ込んだまま立ち上がることができず、通り掛かる人の助けを待つしかなかったこともある。40歳で杖を突く力を失い、車いす生活を余儀なくされた。
「絶望を感じた」ことは一度や二度ではない。薄暗い部屋の片隅で、病を患った自分を思う。いら立ちが募り、「心臓をわしづかみにされたような」息苦しさと不安に襲われる。
発病から10年。首から上と両手首しか動かすことができなくなった。こんな体で、生きる意味があるのか。そう何度も自問し続けた。
もどかしさ
98年(平成10年)、二階堂さんをずっと、介護してくれていた母・靜子さん(89)=婦人部員=が認知症と診断された。
自宅には、寝たきりの父もいた。一つ屋根の下、一家3人がそれぞれに介護を必要とする状態となった。
ある冬の夜。誤ってベッドから滑り落ちてしまった父が、冷たい床に伏したまま、動けないでいた。「ヘルパーさん、遅いな……」。父の消え入るような声を聞いても、どうすることもできない。胸が引き裂かれるように痛んだ。
「施設に入った方がいい」と周囲からは言われた。だが、“住み慣れたわが家を離れたくない”という両親の思いを、痛いほど感じる。だからどうしても、皆で一緒にこの家で過ごしたかった。
それでも現実は厳しい。二階堂さんを担当するヘルパーに、母親の世話を頼むことはできない。逆に、要介護認定を受けた父母の介護ヘルパーに、二階堂さん自身の食事の介助を依頼することもできなかった。
障がい者への支援と高齢者の介護。それぞれ事業所もサービス内容も違う。思うようにならないもどかしさに唇をかみながら、苦悩する日々。
“もう、このまま生きてはいけない”と、自ら命を絶つことも考えた。絶望の淵で、懸命に題目を唱える。何かにしがみつくような思いだった。“それでも生きたい。どうにかしてくれ!”と、自らの心が叫んでいた。
両親の寝息を感じながら、時を忘れて御本尊に祈り続けた。
“希望の灯”
2006年3月。そんな日常に、“希望の灯”がともった。
「私でよければ、お手伝いさせてもらえませんか?」。入浴介助で二階堂さんの自宅を訪れていた、朝戸香織さん(46)=東つつじケ丘王者支部、婦人部員=だった。一家の状況を目の当たりにした朝戸さんは「居ても立ってもいられなかった」と言う。
朝戸さんは、ヘルパー経験のある友人と一緒に、交代で介護をするように。
いつしか、ヘルパーと二階堂さんとの間でこんな話になった。「24時間、365日。困っている人に対応できるような、介護事業所があればいいのにね」
自分と同じように、十分な介護を受けられず、苦しんでいる人がいるのではないか。
構想は急ピッチで進んだ。07年7月、NPO法人「自宅生活応援団 ぴかピカ」を設立。理事長に二階堂さんが就いた。看護師の資格を持つ、朝戸さんが管理者に。
社会人として働いたのは、わずか数年。会社経営のノウハウもない。それでも、“自身の経験が生きるはず”。二階堂さんはそう信じ、祈り抜くと力が湧いた。そして池田SGI会長の言葉に奮い立った。
「迷うことなく突き進め! 恐れなく前へ前へ! そうすれば、結果は必ず、わが方についてくる」
時間を見つけては、独学で経営を学び、ヘルパーの業務以外は、全て二階堂さんが担った。
困難な状況の中でも、希望を捨てずに“生きよう”とする二階堂さん。「こんな自分でも、幸せなんや」と朗らかに語る、その姿を通し、信仰の力を感じた朝戸さんは、08年5月、創価学会に入会した。
責任と使命
事業所を開設して数年後、市から電話が。「ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者を受け入れてもらえないか」との相談だった。難病と闘い、入院生活を送っていた婦人は、どうしても「住み慣れた自宅に帰りたい」という。
介護時間に加え、ヘルパーの体力と精神力も必要となる。二階堂さんは葛藤した。だが、一つの思いがよみがえった。“このような人のための事業所にしようと決めたんやないか!”
09年5月、24時間・365日介護の体制でALS患者を受け入れた。その後、同病者の家族から依頼が急増。責任と使命をますます強く感じた。ある時、利用者の家族から声を掛けられた。
「私たちのことを分かってくださるために、二階堂さんは、そういう不自由なお体になられたんやないかって思うんです」
仏法が説く、「願兼於業」の法理が真っ先に頭に浮かんだ。“全部、願ってきた。それを果たすことが、使命なんだ”。そう確信できた。
病の進行は40歳以降、止まった。それどころか、以前よりもずっと、首を動かせるように。わずかに残る握力でパソコンを操作し、事務仕事もこなす。
目標ができた。「2020年に中国の万里の長城を登りたい」。かつて、親子3人で訪れた思い出の場所だ。
障がいを“暗闇”だと感じ、人生を諦めていた、かつての心は、今は全くない。
「自分が障がい者だとは思わなくなった。不思議やね。心が変われば、全てが変わる。もっと挑戦したい。もっと社会と関わって生きていきたい。そう思えるんです」
今、二階堂さんの心は、澄みきった大空のように広がっている。(聖教新聞より転載)