山本伸一は、ウィルソン教授との会談は極めて有意義であったと感じた。多くの意見に賛同することができた。特に、教授が、宗教が原理主義、教条主義に陥ってしまうのを憂慮し、警鐘を発していたことに、大きな共感を覚えた。人間も、また宗教も、社会、時代と共に生きている。そして、宗教の創始者も、その社会、その時代のなかで教えを説いてきた。したがって、教えには、不変の法理とともに、国や地域の文化・習慣等の違い、また時代の変化によって、柔軟な対応が求められる可変的な部分とがある。仏法は、「随方毘尼」という考え方に立っている。仏法の本義に違わない限り、各地域の文化、風俗、習慣や、時代の風習に随うべきだというものである。それは、社会、時代の違い、変化に対応することの大切さを示すだけでなく、文化などの差異を、むしろ積極的に尊重していくことを教えているといえよう。この「随方毘尼」という視座の欠落が、原理主義、教条主義といってよい。自分たちの宗教の教えをはじめ、文化、風俗、習慣などを、ことごとく「絶対善」であるとし、多様性や変化を受け入れようとしない在り方である。それは、結局、自分たちと異なるものを、一方的に「悪」と断じて、差別、排斥していくことになる。
「人間は宗教的信念(Conscience)をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行なうことはない」(注)とは、フランスの哲学・数学・物理学者のパスカルの鋭い洞察である。つまり、宗教は、諸刃の剣となるという認識を忘れてはなるまい。本来、宗教は、人間の幸福のために、社会の繁栄のために、世界の平和のためにこそある。宗教の復権とは、宗教がその本来の使命を果たすことであり、それには、宗教の在り方を問い続けていく作業が必要となる。自らの不断の改革、向上があってこそ、宗教は社会改革の偉大な力となるからだ。(聖教新聞より転載)
「宗教の原理主義・教条主義については論を待たない、世界の紛争、テロ等見ればわかる、そして庶民が難民となり生活ができなくなっている。仏法の「随方毘尼」に考え方は柔軟でりしかも本義を損なう事はない、布教して行くと言う事の根本は人を幸福へと導く事である。自分自らが原理・教条主義になっていないか?「随方毘尼」の考え方で人との出会いを大切にしているのか?世界広布と言っても自分からのものであると思って今日も行動して行こう!」